一人で勝手に討論

経正と敦盛〜琵琶と笛〜
ふと考えることがあります。
それは経正と敦盛の楽器の扱い方です。
確かに大きさはめちゃくちゃ違います。
しかし、1つ疑問に思うことがあるのです。
2人の所持していた楽器はどちらも国宝級と言うべきものです。
どちらも元は皇室関係のものですから。
しかし、経正は都落の際、青山に別れを告げ、
敦盛は小枝を最期まで持っていっています。
では楽器に対する2人の何が違うのでしょうか。
大きさ、持ち運びやすさ、直接皇室から賜ったものか、
違います。
2人の年齢です。

以前私は経正1151年生誕説を唱えました。
これが仮に正しいとすると、都落ちの際の年齢は経正32歳敦盛15歳
なります。
ふと考えてみたのです。
私自身、楽器を13歳のときから所有しています。
もし、15歳のころの私が都落の場面にいたらどうしていたか、
そして今30歳の私が直面したらどうするだろうか、と。
まず、敦盛の立場で考えます。
敦盛にとって小枝は自分を表すものでした。
小枝を吹けば、その音で誰もが自分を認めてくれるようなものでした。
それ以外何があったでしょうか。
顔がいいだけで一門には通用しないのです。
それは維盛を見ていればわかることです。
末っ子とは役得なこともあるものです。
上の人をたくさん見ているから、どうすればダメで、どうすればいいのかがと
っさに判断できるのです。
加えて体は小さいほうだったでしょう。
幼いころは酔っ払いなどが集まると少し恐怖も覚えたかもしれません。
しかし、小枝だけは違いました。
小枝を吹いていれば、誰もが自分を認めてくれたのです。
ほかの事で自分の存在価値を示すには、あまりにも幼すぎたのです。
想像するに、敦盛の音は深く、夜眠る鳥や虫達の子守唄のように響いたこと
でしょう。
それはすなわち夜想曲、誰が聞いても安心し、安らげるものだったのです。
実際、小枝の音は深夜に吹くと冴え渡る、という記述も残っています。
だからこそ、敦盛は小枝を手放すことは出来なかったのです。
途中海の中に落とすかもしれない、戦の最中、失くしたり、壊れてしまうかも
しれない、
そんな考えは敦盛にはまったくなかったでしょう。

一方、経正は敦盛とは違います。
30を過ぎて色々と経験を重ねています。
琵琶は確かに自分の存在を示してくれる最大の道具ですが、
それ以外にも自分の存在価値を示すものがあることを知っています。
和歌でもいいでしょう。
兄の教えでもいいでしょう。
つまり、経正にとって青山は半身のようなものであっても、
先のことを考え、戦の塵にしてしまってはいけないという考えが優先したので
す。
楽器は繊細です。
ねじ一つ緩んだだけで音がならなくなってしまったりします。
毎日メンテナンスを行う必要もあります。
実際ある本には、経正が亡くなったと同時に青山の弦が切れたという記述
があります。
また、青山は御室と経正をつなぐ唯一のものでもありました。
敦盛にとって小枝がつなぐものは父です。
そのつなぎを失いたくはなかったのでしょう。
また、経正は都落の時点で、ある程度を覚悟していたと思います。
敦盛と違って戦に出た経験があるからです。
だからこそ、田舎の塵にしてはいけない、という言葉も出てきたのではないで
しょうか。

私にとっても楽器は非常に大切なものです。
決して子ども達の手に触れないようにしています。
時折出してはメンテナンスも行います。
もし今都落と似たような状況に陥ったなら、
恐らく戦とは無関係の、戦が届かないところへ預けると思います。
そして後世の人に使ってほしいと思います。
今で言うなら顧問の変わっていない高校に寄付して、名も知らぬ後輩に使っ
てもらう、という感覚ですかね。
そのくらい思いいれが強いのです。
経正のほうが敦盛よりも楽器への思い入れが強いといいたいわけではあり
ません。
一度手にとってしまえば、しかも大好きな人からもらったものだとすれば、
思いいれも強くなりますし、より一層大切にするでしょう。

私は今まで「経正都落」「青山之沙汰」を何も考えずに、和歌だけに集中し
て読んでいました。
人間ドラマだけを見ていたのです。
しかし、敦盛最期と比較すると、もっと深いものが見えてきたような気がしま
す。
もしこれらの話を読まれる機会があったら、ぜひ、その辺も対比しながら読
んで見ると面白いかもしれません。

古梅の がくにさえゆく 笛の音は かわりかわらぬ 月を眺めし
(庭の古梅の花びらを通して冴え渡る笛の音は、姿は日々変われどもいつま
でも変わらない月を眺めているようです)





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