一人で勝手に討論

敦盛長歌
某所でちらっと書いた長歌
実は前賢故実の描いた敦盛に書いてあるものとやっと気づいたんですが、
まあ、このために長門本を取り寄せてもらったとか、
部活を一日休んだとかあったんですが、
最近経正の和歌をかじっていたら、ふと気になったことが。
敦盛の和歌の師匠って、誰?
確か、この長歌の存在をみつけたときは、
資料には敦盛が詠ったという記述があったんです。
実際長歌の最後が「一の谷の苔の下に埋もれん」ですから、
誰かが書いたものを持っていたとは考えにくい。
とすると、やはり詠ったのは敦盛か、親しい和歌の詠める親族となります。
何でこれがわからないって、
敦盛が和歌をたしなんでいたという記述はどこにもないのですよ。
いくら貴族のたしなみとはいえ、維盛のように詠めない人もいるわけです。
敦盛の場合は祖父も歌人、父も歌人、兄も歌人ですから、詠めて不思議は
ないのですが、
内容が違いすぎる。。。
先に述べたように、経正の歌ってどこか人間味の方が大きいんですよね。
でもこちらの長歌、四季と自然が題材ですから、私的感情とか一切ないんで
す。
本当に資料が少ない(札幌近郊でさえ江別の1冊です)ので、
全部載せるわけにはいかないんですが、始まりからして「桜梅桃李の春」
すからね。
昔どっかで見たこれに関わる文章で「一の谷に…」から始まる歌があるんで
すが、
確かこれは一の谷の合戦を描いたもので、敦盛の長歌とは関係なかった
はず。
こっちも四季が題材でしたけど。 原文なんだったかな?
もしかしたら私の知り合いが書いたやつかもしれませんが。
で、経正の詠み方と、この長歌、全然詠み方が違うんですね。
ということは、この長歌を敦盛が詠ったものだとすると、
敦盛が和歌を教わったのは別の人ですよね。
まぁ、兄ちゃんが仮に18歳違うとしても、教育を受けるのは別の人でしょう
が。
じゃあ、父ちゃんか?と思ったんですが、父ちゃんの歌って、探しても見つか
らない。
見つかったのは60歳のときにだか詠んだ恋の歌。何やってんですか、あー
た;;
図書館でもいければいいんですが、何せ未就園児がいるのでいけず。
ただ、よくよく読んでみると、やはり経正も平家の子だなと思う共通点もあっ
たりするのですが。
多分忠度との交流も和歌を通して深かったんだろうなと思います。
で、話それましたが、敦盛の長歌です。
もう、どう詠んでも、何回詠んでも人的感情ではなく、自然、情緒的ものなん
ですよ。
とか色々考えると実は敦盛って歌苦手?とか思ったりもするのです。
だって、文献によるけど、7歳で小枝もらっちゃってるんですよ?
子どもですもの、一点集中型なら、のめりこめばのめりこむほど、ほかの事
はそれよりも低くなります。
ちなみに子どもの集中力はどんなに持っても8分だそうです。
だから、多分経盛とか忠度とかに和歌の話はされても「じゃ、次笛で」とか行
ってそうなんですよね。
やるけど二の次みたいな。
ちなみに何で忠度さんと交流があったことを推すかと言うと、
忠度も優れた歌人で、仁和寺の歌合せにも出席しているからです。
実際、亡くなったのも41歳(この辺の享年多いな)で、経正と年近いですし、
忠度、経正、敦盛は波打ち際で討たれていますしね。
で、経俊がスポーツマンタイプだったとすると、
忠度は熊野で育って、武の方にも長けていましたから、
これもまた何の不思議もないわけです。
まあ、特に経盛と仲が良かったという記述があるわけでもないのですが、
おそらく一の谷での陣は一緒だったかなと。

なんか長々と書きましたが、
この長歌は本当に思い入れの強いものですので、
私自身気に入っています。
昔はこういうの空でいえたんですけどね、今は無理。

まあ、なんにしろ、こういう妄想を膨らませると、
きっとほとんどの人は西に向かって手を合わせて亡くなっていったんだろ
うなとか、
今が精一杯すぎて、死に直面した瞬間、何かが解き放たれたから潔く逝け
たんだろうなぁとか。
14〜16の若武者でさえ討ち取られる時代ですからね。
残党狩りも激しいものでしたが。
延慶本に出てくる経正の子なんて6歳で殺されていますし、
知盛の次男も16歳(お兄ちゃんと同じ年)で殺されていますしね。
でもこれを見せられた母親が一番哀れかも。。。





トップへ
戻る
前へ
次へ




inserted by FC2 system