今回の謎は経正の官職。
平家物語では「皇后宮亮」となっています。
経正がこの官職についたのは1176年正月、従四位下の昇進とともにでし
た。
このころ皇后はいませんので、中宮徳子に仕えたものと思われます。
これはいいんです、これは。
問題は「皇后宮」なのか「皇太后宮」なのか!!
ウィキを始め、個人サイトでは「皇太后宮亮」と表記されているのです!
では皇太后と皇后の違いって何ぞや?
皇太后…先帝の皇后
皇后…帝の后
なるほど。
よく考えてみればそうだよな。
ここで調べるのが高倉帝の没年。
調べると1181年でした。
経正の解官が1183年の都落で、ここまで丹後守や但馬守を兼任していま
す。
最後の名乗りが皇后宮亮なので、兼任と思われます。
ということは、1181年に皇后宮亮から皇太后宮亮へ変わったと
考えられます。
ああ、官位とかって面倒くさい!調べる方の身になってくれ!!
ちなみに敦盛も最初は官位があったという説(若狭かどっかの守)がありま
すが、
最終的には官位がなかったため、無官大夫(大夫は五位の呼称)となってい
ます。
もう、昔はよくわからない!!
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