一人で勝手に討論

仕えた人の謎
誰って、経正か?大まかに言うと。
実は経盛って二条派なんですよ。
じゃあ経正も嫡男だから二条派なのか?というと、そうとも言い切れないこと
が。
なぜならこの人右京大夫集で中宮徳子の前で琵琶弾いているから。
しかも維盛とかもそこにいる分、仲が悪いとかそういうことではないらしい。
まあ、ぶっちゃけ清盛も二条派のときありましたしね。

元をたどれば経正は仁和寺の御室二代(覚性と守覚)に仕えていました。
経正だけが稚児出仕しているのは、恐らく経盛の官位の関係でしょう。
また、経盛は元々仁和寺と付き合いがあり、仁和寺も二条天皇を幼少の頃
預かっています。
もしくは琵琶に対しての才能が少し芽生えていたのかもしれません。
実際経正は最初西流当主の孝博の孫弟子となっています。
この人は仁和寺に居を与えられていたといわれています。
後に桂流能登尼の後継者となっています。
経正の「皇后宮亮」は「忻子(後白河天皇中宮)」といわれることがあります
が、
それだと右京大夫集に出てくるのかなと。たしかに年代の計算は合うんだけ
ど。
忻子が皇太后になったのが1172年、経正がこの職に就いたのが1176年で
すから。
経盛忻子の妹多子に仕えていますしね。
恐らく養父の関係でしょう。
多子の養父は藤原頼長なんです。
この人誰というと、経盛の母方の祖父と叔父が家司を勤めた忠実の息子で
す。
もう、繋がりなんて簡単に見つかるものですね;;
結局経正って誰に仕えていたの?というと、はっきり言って物凄い変わって
いっています。
だって、幼少は仁和寺の御室でしょう?
都落の前後からは安徳天皇なわけですし。
ウィキの敦盛だとはっきりと安徳天皇と書いているんですが、経盛の主君
は書いていません。
だから余計にややこしいという。まあ、敦盛の場合は若かったからね。
とりあえず確かなこととして言えるのは、覚性法親王守覚法親王徳子
安徳天皇ということでしょうか。
前の2人だけは確実に史料が残っているので。
元服後もやりとりしていたらしいので。
じゃなきゃ青山やるためにわざわざ呼ばないよな





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