今光源氏の平維盛(たいらのこれもり)です。
お母さんがそうとうな美人だったらしいですね。
維盛自身の奥さんも美人だったらしいですが。
ただ、生涯を通してみると、結構かわいそうな人だなと思います。
最初は嫡男として見られていなかったわけで、嫡男は次男の資盛でしたし、
従五位下に叙せられたのが弟より遅かったし、
そうこうしていたら父重盛は祖父清盛より先に死んじゃうし、
嫡流の嫡子のはずが、叔父に嫡流が流れてしまうし、
都落の際遅れたりなんなりで二心ありと疑われたり、
戦は武将とは程遠かったんでしょうね、まったく勝てず
とうとう清盛に鬼界島に流されそうになったり。
でも嫡流だったから大将として扱われてしまう哀しさ。
結局耐え切れなかったのかな、
一の谷の合戦の前に一門を出て出家して入水自殺してしまいますね。
「平」が重かったんだろうなと思います。
安心できたのは奥さんと子どもの元だけ。
でも奥さんも子どもも都に置いてきてしまったし。
宗家からは疑われ、戦には勝てず。
何度押しつぶされそうになったんだろうと思います。
この人いっつも描くのに苦労します。
なぜなら史実上、美形と決まっているからです。
昔の美形なので今と違うんですけどね。
気がつけば経俊と同じ前髪の出方しているし。
描くときは大抵何考えているかわからないようにしています。
私が描くといっつも経正にツッコミ入れられていますが。
でもやっぱり「独り」が際立ってしまう人です。
平家花揃では「桜」になっていますね。
ただイメージカラーは濃い藤紫です。
イメージは「独」がきてしまうなぁ。
あとは「興味のないことには関心がない」とか。
☆人物情報☆
小松三位中将平維盛(たいらのこれもり)。1158-1184
平重盛嫡子。母は官女とされる。
15歳で一目ぼれした藤原成親の次女大納言局と結婚する一方、後白河法皇の寵愛を受けていたという説もあ
る。
これは後白河法皇が父重盛を重宝していたためと思われる。
建礼門院右京大夫集によると和歌は苦手だったらしい。
後白河法皇の五十の祝いで青海波を冠に桜と梅を挿して舞ったところから桜梅少将と呼ばれる。
周囲からは今光源氏と評価を受けるほどの美青年だった。
参加した戦には全て敗戦、水鳥の音で知られる富士川の戦いが有名である。
都落の際、妻子との別れに名残を惜しんでいたところ陣に遅れ、時子、宗盛に二心ありと疑われる。
一の谷の戦いの前後で陣を脱出。熊野にて出家、那智の沖にて入水。享年27
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