人物考

平経正(1152?-1184.02.07)
人物考経正
さて、平経正(たいらのつねまさ)です
伯父が清盛、父は経盛で長男嫡子です。
弟は有名な敦盛ですね。
弟結構たくさんいたらしく、息子もいたらしいんですが、
あまり参考資料がないので平家物語で確認できる経俊と敦盛だけしか扱いません。
弟の1人は養子らしいですし。
で、文献によっては弟同様、美形だったらしいですが、定かではありません。
ただ8歳から仁和寺(父の縁があったらしいですが)に元服する13歳まで稚児として出仕していたし、
御室(当時は後白河法皇の弟の方ですね)からものすごい寵愛を受けていたという資料もあるので、
おそらく幼い頃は美形だったのではとは思います。
実際、守覚法親王の日記に「紅顔」(美形)という表現もあります。

ちなみに古今著聞集には、幼名が千手で出てきて、御室がすごい男色家で、
あるとき、別の稚児に寵愛が移って孤独を感じた千手が御室の元を離れたという話があります。
で、酒宴(おい坊さん)の席に千手がいないことに気づいた御室の甥っ子が、
千手を呼んで笛やら朗詠やらさせようと呼びにいかせたんですね。
でも千手は御室が別の稚児をそばにおいているのを見るのが辛いわけで、
仮病を使って中々行こうとしないのですよ。
何度も呼びに来られるものだから仕方なく行ってみたら「今様をうたえ」と言われたので
「過去無量の諸仏にも 捨てられたるをばいかがせん」
つまり御室にも捨てられたのにどうすれというのですか、というふうに謳ったわけですよ。
この時点で「お兄ちゃん!!」とか思ってしまうんですが、
御室も御室、哀れんで堪えられず、千手を寝所にそのまま連れてってしまったという
まぁ、これだけでなくとも病気のとき以外は側にいたという文が経正都落にあるので、
経正さん自体も相当御室を慕っていたというのはわかります。
本当に当時の寺というか、貴族と言うか、男色が容認されているから凄い。。。
(むしろこれに関する研究者がいることにびっくり)

平家物語で経正が主人公となる話は2つあります。
1つは上の内容を含めた「経正都落」で、仁和寺に国宝級の琵琶「青山」を返しに行く話。
別れ際、ほとんどの僧と稚児たちが袖にすがって涙したというから、
仁和寺でのこの方の存在感は凄かったのでしょうね。
でもう1つが「竹生島詣」です。
倶利伽羅の戦いの際、本隊が遅れたために詣でたところ、
奉納してあった琵琶を弾いてほしいと言われて弾いたところ、
その音色の美しさに明神も感動して白竜となって袖に舞い降りたという話。
私はどちらの話も好きです。
敦盛最期の後に読んだのがこの2つ(正確には「青山之沙汰」含めて3つ)だったので。

さて、この方最大の謎は年齢です。
兄弟3人とも一の谷で死んでいるんですが、その時弟が19歳と16歳。
でも先に述べたように弟全部で6人くらいいるんです。
で、覚性法親王が1169年に亡くなっていて、青山を17歳でいただいているんですが、
これが甥の守覚ではなく覚性から賜ったとしたら1150年〜1155年頃ではないかと思います。
また、右京大夫集で、維盛らと管弦などを催しからかわれたという話があるので、
同世代かとも思えます。維盛が1158年の生まれですので。
一の谷ではおそらく30前後だったと思われます。
ある資料では40代となっているんですが、それはさすがに嫌だと(苦笑)。
日本史の先生に敦盛との年の差で飛びついたら「毛利元就も70過ぎてから子どもできてる」
といわれて妙に納得した記憶がありますが。
この話を元にして、私が経正を描くと必ず維盛と絡んでいます。
まず維盛が経正の話を聞いていないとか(笑)。結構振り回されています。
琵琶の名手、歌人としても知られ、一門の俊才だった経正さんですが、武芸もできたようです。
ただ、父と弟は笛の名手だったこともあり、この家系は武とはあまり縁がないようにも思えます。
イメージとしては「お兄ちゃん」「兄バカ」「筋のたった人」「頼れる人」ですね。
イメージカラーは濃い赤です。絵の狩衣くらい。
私が描くと本当に兄バカで苦労人です。ほとんど無鉄砲の末っ子のために走っている感じがあるかも(苦
笑)。
平家花揃では「冬の庭」と称されているそうですが、
イメージは牡丹かなぁと思います。それは重衡なんですが。
後ろにいるのが千手です。
何が苦労したって、現存しない青山だよ
もう、琵琶も初描きだったので「こんなんでいいですか」状態。
経正は私にとっての永遠の憧れかもしれませんね。
楽器やってたせいもあるのかもしれませんが。。。。

☆人物情報☆
皇后宮亮平経正(たいらのつねまさ)。?-1184
平経盛嫡男。平家物語で確認できる弟は2人。延慶本では男子を確認できる。
8歳より仁和寺に稚児として出仕し、時の御室(覚性法親王)の寵愛を受ける。
13歳で元服、17歳で宇佐八幡宮の勅使に立つ際、名器青山(せいざん)を賜る。
琵琶の名手として知られ、建礼門院右京大夫集ではその腕前を披露、和歌も詠んでいる。
和歌の名手としても知られ、勅撰集などに入選している。代表作に「平経正朝臣集」がある。
一の谷の戦いにて河越重房に討たれる。

☆官歴☆
1173年5月…左衛佐
1176年正月…従四位上、皇太后宮亮(当時皇后位はいなかったので、恐らく徳子と思われます。忻子という説もあり)
1178年正月…丹後守
1179年11月…正四位下、但馬守


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