人物考

平通盛(1153-1184.02.07)
なんか一途すぎて泣ける人です。
教経のお兄ちゃん、平通盛(たいらのみちもり)です。
本名公盛なんですが、何で名前が2つあるのか未だにわかりません。
誰か教えてくだされ。
で、清盛の弟の教盛の嫡男で、30まで子どもがなかった人なんですが、
この人最初に知ったのは小宰相身投なんです。
その後やっぱり人形劇を見て、一の谷の前に小宰相が通盛に妊娠を告げるシーンが印象的だったのです
ね。
調べれば調べるほど「この人一途すぎ!」と思えるんですが、
最初は小宰相に無視されていたわけです。
それでも諦め切れなくて文をどんどん送り続けるのですが、
ある日、取次ぎの女房がおらず、使いの童がどうしようかと思ったところ、
ちょうど小宰相の乗った車が通ったので、窓からぽいっと文を投げ入れます。
「またあの方からだ」とそのままにしておくのもなんなので、袖に入れて持っていくわけですね。
するとそれを落としたらしく、上西門院に見つかるわけです。
で、院に「あまり気が強いのもよくない」と小野小町の例を出され、
返事をかくようになるわけですが…。
ここまでいったい何年かかったんだ、この人!とか思うともう。
しかも無視されても文を送り続ける一途さ。泣けてきます。
夫婦仲は睦まじく、あちこちで取り上げられていますね。
小宰相の生年は1164年説がありますが、そうすると通盛とは10くらい違うのか。

戦の方ですが、基本勝ったり負けたりですよね。
ただ、弟が教経なので、その助けもあったのかと思います。
水島の戦いも総大将は知盛ですし。
歌を詠んだりするほうが得意だったのではと思うと、
教経とは正反対だったと思います。この人よくわかりません。
ただ一途だなぁと。
だって、一の谷でもう負けて、討たれようとしているのに、乳母子を逃がして
「自分が討たれたことを小宰相に伝えろ」って言ってんですよ。
どこまで一途なの、あなた!!状態です。
しかしこの戦の後、何が嫌って、獄門
わざわざ都に帰ってきて、さらし首になるんだもん。
でも敦盛って首塚が須磨にありますよね?
しかも丁重に扱われているし。実際どうなんだろうとか思ってしまいます。
絵ですが、書き直しました。
最初の絵があまりにもオカシすぎたので。
ここの兄弟の口、皆大きくしたら顔がやけに…。。。
イメージは「おしとやか」「優美」です。
ただ教経の兄ですからね、実際どうなんだろ。
イメージカラーがどうしても黒系になってしまう。

☆人物情報☆
三位中将平通盛(たいらのみちもり)。1153-1184
平教盛嫡子。母は藤原資憲女。弟に教経、業盛、忠快、妹に教子。
西上門院に仕えていた小宰相に思いを寄せ、文を送るが振られ続ける。
西上門院のはからいで側室として迎える。正室は宗盛女だったが12歳であり、幼かった。
一の谷の戦いにて乳母子に小宰相への言伝を頼んで討たれる。享年32。


トップへ
戻る
前へ
次へ




inserted by FC2 system