人物考

平徳子(1155-1214.01.25)
言わずと知れた清盛の娘で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の生母です。
中々子どもに恵まれなかったんですが、夫婦仲はむつまじかったといいますね。
それは高倉天皇が逝去した後、後白河院の御所に入ることを提案され拒否していることにも現われています。
徳子が両親の意向に逆らったのはこれが初めてだそうです。
結局別の清盛の娘が後宮入りしています。

都落ちにも安徳天皇を連れて同行し、最後まで一族と運命を共にしています。
が、一度入水したものの、助けられ、最後は大原寂光院で平家を弔いながら余生を過ごします。
一度は宮中の華やかな世界に身をおいたにも関わらず、こうして運命に翻弄されるというのはこの時代の女性の特徴といえるでしょう。
実際、いつの世の後宮も、帝の寵愛争いは絶えず、源氏物語にもその様子は描かれています。
後白河法皇の生母とかも有名ですね。
この激動の時代に身をおかなければならなかったけれども、少しの幸せと安心できる人が傍にいたからこそ、乗り越えられたのかと思います。
後白河法皇が大原を訪ねた際は、都落ちの際の話をしており、水も食料も満足になく、地獄の苦しみを味わったと表現しています。
捕らえられた後、明石で見た夢では、内裏より立派な場所で先帝と一門の人々が礼儀を正して控えていたので、どこかと尋ねると、竜宮城と答えられました、ここに苦しみはあるのか尋ねると、竜畜経に書かれていると答えられたので、日々経を読み、弔っていると、後に後白河法皇に話していま
す。
それを聞いた後白河法皇は目前に六道を見たのだろう、珍しいことと涙したといいます。
確かに後白河法皇の周りにも平家はたくさんいましたから、悪い思い出もある一方、良い思い出も多いことでしょう。中には宮中に華を添えた者もいたわけですから。
そう考えると、何と世の儚きことと思ってしまいます。
こういうことって、終わってしまってから気づいてしまうんですよね。

イメージは自分の意見をしっかりと持っているですね。
押し流されそうな時代の中で、自我を保っていたのは自分をしっかりと持っていたからでしょう。
絵ですが、やはり中宮であったので、髪に異様に気合入れました。
普段こんな塗り方しません。口まで塗ってるし。
花揃では嵯峨野の秋の女郎花が露を寂しくしているよりも気の毒で、撫子の露で押し倒されているよりも可憐で、魅力的な様子であるという風に表現されています。なので背景は撫子。好きな花です。
イメージカラーは鮮やかな赤ですね。
四十五代目トップ絵です。

☆人物情報☆
中宮平徳子(たいらのとくこ/のりこ)。1155-1214.01.25
父は平清盛、母は継室時子。同母兄弟に宗盛、知盛、重衡らがいる。
1152年高倉帝の下に入内、が6年ほど子どもに恵まれず、不仲説もあった。
が、建礼門院右京大夫集の記述では仲はむつまじかったという。
平家の都落ちに安徳天皇を供だって同行、壇ノ浦で捕らえられる。
以降は大原の寂光院で余生を過ごす。享年60といわれるが没年は定かではない。


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