一人で勝手に討論

補足というか訂正というか
経正のところで、経正の幼名が千手と書いているのですが、
これは正式に書かれているわけではありません
というのも、確かに覚性法親王と千手の話はあるのですが、
千手=経正という文献はどこにもないので、推測するしかないのですね。
ただ、この文章に守覚法親王が出てきています。
守覚法親王が仁和寺に入ったのは1159年のことです。
経正1152年生誕説が正しければ、経正とほぼ同時に入っています。
さらに覚性法親王がなくなったのは1169年ですから、
経正が仁和寺にいたのが1159年から1164年と考えると、
守覚法親王がやってきた1160年から覚性法親王が亡くなる1169年まで
に在籍した稚児として
もっとも寵愛を受けていたと記述されているのは平家物語での経正くらいし
か見当たらないのですね。
ただ覚性法親王、盛んな人だったそうなので、わかりません。
もしかしたら千手も1165年から在籍していた稚児かもしれません。
というのも千手の得意としたのがらしいんです。
違いますよね。
経正は覚性法親王から琵琶を習い、青山を賜っています。
仁和寺に青山があったということだけで、それを経正17歳のときに下賜
したとだけしかないんです。
しかも笛や琴などは貴族のたしなみであったため、経正も当然手習いしてい
たでしょう。
経正の和歌も藤原俊成と交流はあったものの、学習能力が上がる頃は
和寺でしたから、
ほとんどの教育を仁和寺で受けているわけです。
それは経正の和歌の読み方の特徴を見れば何となくわかります。
一番わかりやすいのが
(覚性法親王)
よそにのみ 恋てふことのみなれざを けふは我が手にとりてけるかな
「恋というものは、よそごととばかり見慣れていたけれども、今日は自分自身
のこととして経験したことだ」
(経正)
色に出づと物思ふ人をもどしきは まだ恋なれぬをりにぞありける
「恋の物思いにふけっている人を「顔に出ているよ」とあげつらったのは、思
えば恋の苦しみを知らない頃でした」
意味がほとんど同じなんですよ。
何となく、何を対象に、どのように詠むかでわかりませんかね。
たとえば忠度と比べると一目瞭然なんですが、忠度の分かれの歌は
さざなみや しがのみやこはあれにしを むかしながらの やまざくらかな
と言ったように、自然を題材としたものが多いような気がします。
対して経正はそのときそのときを詠んでいたり、感じたままだったり、気持ち
だったりで、忠度と比べると情緒的とはいえないと思います。
呉竹のかけひの水はかわれども なおすみあかぬ みやのうちかな
これもその場にあるものと、水が澄むと都に住むを掛け合わせたもので、宮
は当然仁和寺です。
旅ころも 夜な夜な袖をかたしきて 思えば遠く 我は行きなん
もそうですよね。今の状態ですから。
そう考えると、やはり教えの基本は実父にあったかもしれませんが、それを
成長させたものは仁和寺にあったのかもと思います。
話が少しずれましたが、著聞集を見る限り、やはり文章の内容と経正のいた
時期が一致しているように思えます。
なので私は千手=経正説を採るのですが、これはやはり人それぞれです
ね。





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