一人で勝手に討論

裏づけ
経正の生誕を1152年と唱えたのですが、
その裏づけを少ししたいと思います(もういいって)

今回出てきたのは覚性法親王の次に御室にたった守覚法親王です。
この方、1150年生まれで寺に入ったのが1159年です。
経正が1152年生まれとすると、出仕したのが1159年となり、
ちょうど同じ年になります。
で、問題はこの方が経正都落に出てきていることと、
例の千手の話にも出てきていることなんです。
つまりこれで裏づけが2つできるかもということなんですが
(経正1152年生誕説と経正=千手説)、
まず生誕説です。

この方が出てくるのは「経正都落」になります。
経正から青山を受け取り、和歌を詠み交わすシーンです。
確かに皇族の出身の方が歌を交わすことは、
よほどの腕前の持ち主か、親しい殿上人でなければありえません。
ましてこのときの経正は解官した落人です。
となれば、経正と守覚の間には深いつながりがあったと考えられます。
そうなれば、たとえば経正を六条天皇のときの勅使と仮定して、
出仕が1157年、元服が1162年、たった1年の付き合いとなります。
そんなんでそこまで仲が深まるわけなかろう。
そう考えるとやはり1152年生誕説が有力になるわけです。

さて、もう一方の千手=経正説ですが、
これも上記と一部一致します。
古今著聞集の好色にこの千手の話はあるんですが。
さきほども言ったように経正と守覚はあらゆることがほぼ一緒です。
改めて確認しますと経正が寺にいたのは
1159年から1164年です。
覚性法親王が亡くなったのは1169年ですので、
経正が出てからわずか4〜5年のことなんですね。
もしこの4〜5年の間に別の稚児千手がいたとしても、
可能性としては経正=千手は否定できないと思います。
またネタとして描きやすいというのもあるので、
あえてこの説を採っているというのもあるんですが。。。
ただ、経正=千手をとってらっしゃる方もちらほらいらっしゃるので、
別にオカシナ話ではないのかなと思います。





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