一人で勝手に討論

維盛と資盛
さてこの兄弟のことです。
この2人、顔立ちは似ているらしいんですが、関係としてはどうだったのでし
ょうか。
維盛…1158年生まれ。母は官女。
資盛…1158年または1161年生まれ。母は藤原親盛女。
ここで「え!?」と思ったんです。
2人とも同じ年の生まれの可能性があるんですよ!
さてまずここで着目すべきは五位に叙せられた時期です。
維盛…1167年、資盛…1166年
そう、資盛の方が先なんです。
ということは、元々嫡男となっていたのは資盛のほうと考えられるわけです
ね。
たとえば生まれた時期が維盛が先で、同じ年に生まれているとしても、これ
は分かりやすいことなんです。
なぜでしょうか。母親の身分の違いでしょうか。
しかし、資盛の祖父は従五位下下総守で、それほど高くもなく、武士です。
維盛にいたっては不明です。
しかも父重盛の正妻は経子ですから、2人とも当てはまりません。
経子が生んだのは三男清経(1163年生)と四男有盛(1164年生)などそ
の下の弟です。
九条兼実の玉葉によると、資盛は殿下乗合事件(1170年)の時点では嫡
男と記されています。
つまり、維盛って最初は庶長子だったわけです。
次に見るのが名前です。
維と資には元々どのような意味があるのでしょうか。
維…つなぐ。くくる。
資…もとになるもの。もとで。うまれつき。
でした。どちらも「継ぐ」と似た意味を持っているのですが、資には「地位」とい
う意味もあるそうです。
維盛に嫡子が渡ったのは1170年7月から官位を追い抜いた12月と思わ
れます。
何があってこのようになったのかは不明ですが、この2人の最期はまったく
違います。

維盛は一の谷の前後で陣を抜け、滝口入道を頼り、出家、入水します。
資盛は最期まで一門に従い、壇ノ浦で入水します。
性格や精神的なものがまったく違ったのでしょう。
維盛は字のごとく、繊細だったのでしょう。
資盛も字のごとく、たすけとなったのでしょう。
どちらも物悲しさが残るだけです。
ただ、この2人の仲は決して悪くなく、お互いがお互いを思いやっていたと信
じたいものです





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